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戦後つくられた化学肥料、農薬で、日本の農業は変わっていきました。

 戦前はどこの農家でも牛や馬がいて堆肥を作っていました。人糞も堆肥として土に戻し、全てが循環していました。ところが戦後、残った爆薬の原料をどうするか、どこかの偉い人が考えて作ったのが化学肥料です。戦後の日本は食料不足で、化学肥料をちょこっと使うと作物は良く育ち、農家はみんな飛びつきました。収穫は増え10年ぐらいは増収で、そんな美味しい話に農家は化学肥料をばんばん使っていきました。

夏ミカンの味が落ちた―何かおかしい・・・土の力が弱っていたのです。

 これは後で分かったことですが、化学肥料を使うと土の「地力」が落ち、農薬をかけないと作物が育たなくなってしまうのです。当時はそんなことは知らず、戦後の近代農業として普及していったのです。
 そんなさなか、主人や義父が「おかしい、ミカンの味が落ちたよね・・・」と言い始めました。ミカン山の土が堅くて、草が抜けない。そんな時、義父が東京の市場で「今年もあそこの梨だけは美味しいね」と、仲買の人が話しているのを聞きつけ、早速主人と共に鳥取の梨農家を訪ねました。
 「うちのは有機堆肥を使っているから美味しいですよ。化学肥料を使いませんからね。」
 と言われ、もっと詳しく知りたいとお願いすると京都大学の小林達治先生を紹介してくれました。もちろんすぐに小林先生の元へ飛び「戦後使い始めた化学肥料や農薬は、土の中の微生物を殺しています。あるいは住みにくくしています。そうすると、土自身の栄養分がなくなって、農作物の味は落ち、土は固くなってしまいます。」先生の話を聞いて、目からうろこでした。

新しい農業化社会をつくるため、動き始めました。初めは散々・・・試行錯誤、収益も上がらない立上でした。

 同じころ、梁瀬義亮先生という医師が、化学肥料と堆肥の味の違いに気づいて、「有機農業革命 汚れなき土に播け」という1冊の本を出されました。農家ではなく、お医者さんからの発信でした。やっと有機農業の道が切り開かれ、たくさんの人たちが近代農業の危険性に気付き始めていたのです。

 私が有機農業を始めたころはそれは大変で、10年くらいは試行錯誤を繰り返しでした。土づくりをするために化学肥料も除草剤も使わず、ミカンの木が枯れたこともあり、村の人からは笑われ、親戚からは「代々続いてきた農家をつぶす気か!」と、怒られました。
 土づくりには最低でも3年から5年は必要です。多くの有機物からつくった特性の完熟発酵堆肥兼肥料(モグラ堆肥)を使うと、土の中にいろんな生き物が増えてきます。ミミズが増えればモグラも出てきて、自然と共存した土だから美味しい農作物ができるんです。自然界の中で微生物がつくってくれた本来の味です。微生物の力で日持ちも全然違ってくるんです。
 いろんな有機農業がありますが、私たちのように科学的に根拠のある有機農業は少ないと思います。この新しい形の農業が全国に広がっていて若い人たちも参加しています。

若いお母さんたち―生活者の意識が変われば、日本の農業はきっと変化します!

 異常気象、天候不順が続き、作物の被害は後を絶たず、国は安定した食物の生産を目指しビルの地下に植物栽培工場をつくり実用化も始めています。土に代わり化学肥料の液体肥料で育て、虫もつかないので農薬は使っていないというキャッチフレーズ。確かに台風や雪の被害はありませんが、太陽の光は浴びずしかも余計な電気エネルギーを使います。そして恐ろしいことに、冷蔵庫のような家庭用の野菜工場もつくられています。そんな状況だからこそ、食べる側の意識が大事です。一人一人が「国産のものを食べたい!本当に美味しい野菜が食べたい!」と言って欲しいんです。みんながそう言い出せば、日本の本来の農業は潤い耕作放棄地は無くなって農薬漬けの野菜を作れなくなります。
 農薬も除草剤も雨が降れば土にしみこみ、川に流れて、海に辿り着きます。私たちがやってる有機農業だけではもう間に合わないかもしれない・・・農業の、食の危機はそこまで来ていると思っていいです。食は命の源、みんなで変えていきましょう。